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更新日:2015年4月24日

般若寺跡石塔付墓誌銘板

県指定有形文化財(考古資料)般若寺跡石塔付墓誌銘板

般若寺跡

所在地

芳賀町大字芳志戸

所有者

芳賀町

指定年月日

昭和55年2月8日

解説

石塔群は、五行川東岸台地上の般若寺跡(弘仁11年・820創)に南面する。徳川家治(10代将軍)供養塔は総高424cm、方形土壌上に3段の台石、基礎上に蓮華座を据え五輪塔を立てる。水輪、地輪には天明八年(1788)などの銘記をもつ銅製経筒、台石中に骨壷を各々納める。田安宗武(8代将軍吉宗の子)供養塔は総高313cm、方形基壇上に三段の台石・基礎上に蓮華座を据え宝塔を立てる。2基は家治の養女種姫(宗武の娘)の建立で、ともに葵紋を刻み、家治塔は特に優れている。また御本丸官女森野、戸崎の宝塔形供養塔2基(現在高145cm、147cm)と侍臣のものとみられる五輪塔形供養塔2基(総高約230cm、約160cm)が立っている。他に関連史料として墓誌銘板が残されている。

墓誌銘板大意

浚明院殿、つまり徳川10代将軍家治公でありまして、将軍職にあること20年、在世50年、天明6丙午年の9月8日(文献上)、実際には8月26日朝逝去しました。是年7月27日微病を得、療養の効あきらかでなく、8月18日にいたって病益々重い事を自ら知ったので、養女の種姫君を召して竊に遺命して言うのに、(種姫君は紀伊中将治宝の室)、「我往世50年少しも善根をなさず、仏縁なお薄いものであるので、こゝに野州般若寺の僧恵乗は持戒堅固の僧であるから、彼に頼んで供養しておるが、汝(種姫君)願わくば、私の没後国家安寧子孫繁栄の為、有廟(有徳院殿…祖父8代将軍吉宗)惇廟(惇信院…父9台将軍家重)と親族の菩提をとむらう為の彼精舎(寺院)を造立し宝塔を建立して、追福作善(善根)をしようとした意志をついで欲しい。」と遺言し、種姫君は唯々命を諾するうち頭北・西面して生涯を終わられた。種姫君は自ら紺紙に金泥を以て宝篋尊勝無量寿等の陀羅尼(お経の名前)数巻を書写し(写経供養と言う)、且つ紀伊中将治宝卿の書写、其の餘の官女数巻の書写をあわせ、将軍の爪髪等すべて塔内に奉納して無上の菩提を祈った。

旹(とき)天明8年8月26日(三回忌の命日)17日理趣(理趣経)三昧開眼供養

導師灵雲枝院五智院比丘湛恵大徳般若寺第8世謹記

墓誌銘板

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