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更新日:2015年4月24日
芳賀町大字東水沼
芳賀町
昭和53年11月1日
常に用水不足に苦しんでいたこの地の農民達は、元禄3年(1690)、すでに鬼怒川からの導水に成功していた板戸用水からの分水を領主宇都宮藩に願い出るが許されなかった。その後元禄13年(1700)、幕府御普請により溜の拡張工事が実施されたが、用水不足は克服できなかった。農民達は翌元禄14年(1701)に再度、板戸用水からの導水を求める嘆願を起こすが、水量の減少を恐れる既存の板戸用水組合村々の反発を受け、聞き届けられなかった。しかし、粘り強く交渉を続け、宝永3年(1706)、ついに板戸用水組合への参入が認められ、導水工事が始まる。岡堀1230間(2.2km)掘抜(隧道)300間(540m)が開削され、刈沼村地内を分水点として鬼怒川から唐桶溜への導水が実現した。これらの事業に名主の岡田八兵衛(宗山)は多額の私財を投じ、農民達は総出で労力を提供した。この間の事情は岡田家に残る古文書群に詳しい。導水百周年を記念して、文化3年(1806)、宗山のひ孫の清宣が建立した導水碑が水神塔二基と共に溜の西に建つ。隧道は修復を重ね、大正時代まで使用されたという。先人の苦闘を伝える唐桶溜は、「日本のため池百選」に選定されている。
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